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シリコンバレーで通用する英語の修行法(3)
2001年8月27日[BizTech eBusiness]より
慣れない「英語の話」を書いている。だから書き始めたときにはあまり結論めいたもののイメージは持っていなかった。実は「自分が本当に言いたいことは何なのだろう」と書きながら自問していたわけだが、どうやら僕が読者の人たちに伝えたいことはたった一つのことのようだ。そう気づいた。 「英語」という漠然とした概念は、捨てたほうがいいということだ。 これが僕の「英語」についての結論だ。もちろん「英語」の基礎体力というのは最低限必要である。でもそのレベルに達している日本人は実に多い。 問題となる「その先の英語」は、実に細かく専門分化していると考えるべきなのだと思う。「シリコンバレーで半導体の技術開発について話すための英語力」と「字幕なしでA.I.やジュラシックパークを理解するための英語力」と「獣医に行って犬の病気やケガについて相談するための英語力」と「ラジオから流れる野球中継を完全に理解する英語力」は全く違うということだ。 「英語が上手になるためには、ネイティブのガールフレンドがいたほうがいい」とか「部屋に居るときはいつもいつも、わからなくてもいいから英語が流れているのがいい」なんていうのは、みんな嘘である。 「英語」を漠然ととらえて、したり顔で語られるメッセージの大半は嘘だと思ったほうがいい。自分が必要とする英語が何なのかを明確に具体的に定義した上で、「そのための英語力をつけるための努力をする」以外に英語の上達法はないと僕は思う。 たとえば「大好きな映画を字幕なしで理解できたらどんなに素晴らしいだろう」と思ったとする。ならば、字幕なしで映画を理解できるようになる前に、「映画のシナリオをかなりの速度で読んでだいたいのところが理解できる」ようにならなければならないはずだ。そのためには、たとえば省略形をたっぷり含んだ会話の文章に慣れる必要がある。英語の小説を一冊くらいは辞書なしで読みとおせるようにしてみようか。そのためには・・・。という具合に。 一つの山の頂に到達するためには、それなりの道があるのだ。けれど同時に、その山を登りきっても、別の山に登ったことにはならないということも自覚しておかなければならない。だから、英語を実践で使わなければという急な要請を持つ人に、間違った山を登っている暇はないのである。 たとえば僕はそこまでの努力をして「映画を字幕なしで理解したい」という欲求を持たなかったから、未だにアメリカで映画を見ても「そのための英語力」の欠如のため、心からは楽しめない。そういうものなのだ。別にアメリカに住んで仕事で英語を使っていたって、自然に「映画を見て完璧に理解できるようになる」などということはあり得ないのである。 さらに正直にいえば、僕もそういう勉強をしようといっとき試みた。名作「カサブランカ」のシナリオを手に入れ、映画をビデオに録画して、両方を対照させながら、色々な言いまわしを勉強しようとしたこともある。大好きな作家ポール・オースターの著作「孤独の発明」の原書を、柴田元幸氏の名訳と並べて夏休みを過ごそうとしたこともある。どちらもアメリカに来てからのことだ。でもすべて挫折してしまった。 それで気づいた。僕には「カサブランカを字幕なしで理解するための英語力」や「ポール・オースターを原書で読むための英語力」を身につけるための「時間の投資」はできなかったのだと。それだけの動機付けを継続させることができなかったのだと。 もう一つ別の例をあげよう。1996年に、僕と妻はラブラドール・リトリバー犬を飼うことにした(余談:つい最近、僕の初めての本「シリコンバレーは私をどう変えたか」が出版されたが、裏表紙を黒い犬のイラストが飾っている。それは我が家のラブラドール犬・ジャックをモデルとして描かれたものだ。)。まず僕たちは、ブリーダーの家に行って、生まれてくる仔犬の両親を見て、そこで仔犬を予約した。それから数週間で仔犬が生まれ、生後七週間で我が家にやってくるという段取りである。つまり仔犬を予約してから、実際に仔犬が我が家にやってくるまで、だいたい二ヶ月くらいの時間の余裕があるということだった。 その間に、僕は何もしなかったが、妻は猛勉強を始めた。犬の育て方、仔犬のしつけかた、犬の病気やケガ、ラブラドール・リトリバー犬の生態、たくさんの英語の本やビデオを買い込んできて、犬に関する知識と語彙を急激に増やし始めたのである。 結果どうなったか。それから5年以上たった今、僕は獣医に行っても、妻と獣医との間で交わされるジャックについての英会話の大半を理解できないのである。 ある種の「英語」が理解できない大きな理由は、固有名詞と専門用語、つまり背景知識にあると、僕は思っている。英語の構文が追えても、名詞が理解できないとどうにもならないからだ。難しい言葉でいえば、Domain Knowledge(その領域についての知識)の必要性という問題である。日本ではこのことの重要性がきちんとアナウンスされていないように思う。 極端な例ばかりを挙げたと思われるかもしれないが、英語が上手だと自認して、人に「英語をどう勉強したらいいか」を語る人の大半が、「自分がどういう英語ができないか」を正直にディスクローズしていないように思う。だから、そこそこ「英語ができる」人は、「細分化されたすべての分野での英語ができる」人なのではないかという幻想が作り出されている。それによって、これから英語を学ぼうとする人の自信を喪失させたり、目的と合致しない英語の勉強を強いるという事態が引き起こされているように思うのだ。 特に学校で英語がとりたてて好きだったというわけでない人へ。何でもいい。自分が熱中できること。どうしてもしなければならないこと。その領域を選んでDomain Knowledgeを持ち、そのことについての英語力だけを身につける努力を、まずするべきだと思う。 ■
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