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「美しい日本の掲示板」(鈴木淳史著)書評
2003年8月18日[プレジデント]より
鈴木淳史著「美しい日本の掲示板」は、若者言葉、2ちゃんねる語、方言や江戸期の言葉遣いなどを織り交ぜ、いたるところにくすぐりを入れた「新作落語の語りおろし」のような軽妙な文体で書かれ、その魅力に引き込まれてページを繰るうちに、2ちゃんねる世界へ入門できる仕掛けになっている。掛け値なしに面白い本だ。特に「実は2ちゃんねるのことが気になって仕方なかったのだが、その内実は何も知らない、2ちゃんねるにアクセスしたこともない」という読者にはお薦めの一冊である。奇妙な言葉遣いの秀逸な解説までついている。 「いかに有象無象の人を集め、コミュニケーションを成立させるか」という掲示板の本質を追求するため、2ちゃんねるは「暑苦しい名前など捨てて身軽に振舞える場所を目指し」て「無名性のパラダイス」を実現した。 「2ちゃんねるに相当するような匿名掲示板は海外では存在しない」「これほどまで多くの人がアクセスし、その掲示板がひとつの文化になっている国はほかではあり得ない」と書く鈴木には、2ちゃんねる世界が「奥深く日本人のこころにマッチしている」という問題意識があり、それゆえ「美しい日本の掲示板」(言うまでもなく、日本文化について語った川端康成のノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私」を意識している)などという人を食ったようなタイトルをつけているのだ。 『名無しのほうから見れば、俺らがマッタリやっているときに、「拙者はナントカでござる」みたいなヤツが入ってくれば「なんだコイツは」とも思うし、彼が面白い書き込みを続ければ「やっぱオサムライは頼りになるな」と見直し、どうしようもないヤツだとわかれば「一揆じゃ一揆じゃ」とお祭り状態に入るということなのだ。かくのごとく、名無しとコテハンのあいだに流れる川は大きく深い。』 『コテハンの道は険しい。揶揄や攻撃の対象ともなり、不用意な発言からヘタをすると個人情報を暴かれ、すごすご退散ということにもなりかねない。しかし名無したちからの人望を集めれば「神!」と賞賛されることだってある。』 たとえばこの文章は、名無し(大多数の無名の書き込み者)とコテハン(実名ではないが固定ハンドルという唯一の仮名を使い続ける書き込み者)の間のネット上での緊張関係について語った部分であるが、鈴木は「名無しとコテハンの関係は、江戸時代の百姓と武士のそれと似ている」と言う。 さらに、江戸期の連句(俳諧による連歌)、中世・近世の落書文化(匿名の庶民による権力腐敗の告発や社会風刺)、室町時代の落首(滑稽隠喩、多材多芸、逆境不遇、そして匿名卑劣、きわめて矛盾をはらむ詩文芸)といった明治維新より前の日本文化が、2ちゃんねるを支える精神的背景となって今も息づいているとの指摘は鋭い。 むろんこうした粗っぽい議論に対しては、歴史研究者や社会学者からは異論が提示されるであろう。でもそんなことは百も承知。シリアスな異論には「ネタにマジレス、カコワルイ」(本当かどうかわからないけれど面白い話、つまりネタに対して、真面目に反論する者を茶化すときに使う2ちゃんねる語)という言葉さえ、ちゃんと用意されているのである。 インターネットが一般に広く利用されるようになってからまもなく十年。次の十年はインターネットがさらに社会の仕組みを揺さぶっていくに違いない。新しい変化の中には、特に既得権者・エスタブリッシュメント層にとって「唾棄すべき許せない変化」も多々含まれよう。2ちゃんねるもその一つかもしれない。しかしここで重要なのは、新しい変化への好奇心を持ち続け、頭から否定する前に、新しい対象をまるごと理解しようとする姿勢である。 その意味で「美しい日本の掲示板」は素晴らしい啓蒙書である。まずはこれを読み、2ちゃんねる管理人・ひろゆきのインタビューも掲載されている「2ちゃんねる宣言」(井上トシユキ+神宮前.org著)を読み、それからおもむろに2ちゃんねるにアクセスしてみたらどうか。何も知らずに2ちゃんねるにアクセスした瞬間の違和感は、きっと大きく軽減されることと思う。 ■
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