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新刊書評 「働くということ」

2004年12月13日[プレジデント]より


「日本ビジネス社会と関わりつつアメリカに住む」という生活を始めて10年以上が過ぎた。この生活を始めた1990年代半ば、日本での配達から数時間遅れで西海岸の夕方に届く日本経済新聞衛星版は、私にとって日本情報のライフラインだった。当時は隅から隅まで隈なく読んだ。しかしインターネットの登場により、徐々に日経依存度は低くなっていき、今も購読は続けているものの読む箇所も費やす時間も激減した。

そんな中、毎日欠かさず読んだ記事の一つが、2003年4月から04年9月まで断続的に続いた同紙一面連載「働くということ」だった。なぜ毎日読んだか。それは、採算度外視で取材に法外なコストをかけた、恐ろしく単価の高い記事であることが容易にうかがえたからだ。

インターネット上に厖大な情報が溢れ、グーグルでそのすべてが瞬時に検索できる今、グーグル検索しても出てこない「隠れた情報」を含む新聞記事でないと、私たちはその記事に新鮮さを感じなくなっている。この連載には、そんな「隠れた情報」が満載。取材にカネがかかっているなぁと読みながら毎日思ったものだ。日本経済、日本ビジネス社会の新聞として、デファクト・スタンダード(事実上の標準)の地位を築き、寡占的収益を上げる日経でなければ、なかなかこんな贅沢な記事は作れない。本書はその連載を再構成し、加筆・修正を加えて出版されたもので、間違いなくお買い得の一冊と言える。

「失われた十年」などと言われながらも、その間に日本社会の「仕事の現場」がどれほど大きく変化したか。取材された莫大な素材から選りすぐった「隠れた事例」を次々に並べることで、本書はそのことを表現する。

一つの事例に費やされるのは平均半ページ。取材した内容の大半を惜しげもなく捨てて最後に残った「いいところ」だけでできあがった短い文章が、次々と事例を変えながら続いていく。「このことについてもう少し知りたい」と興味を持ったところで、もう話題は次に移っている。最初はそれに戸惑うのだが、読み進めていくうちに快感に変わっていく。現代のスピード感にマッチしているからだ。

優れた新聞記者は、時代の意味を切り取って、それを新しい文字や言葉の組み合わせによって表現するものだ。一方、グーグルを駆使する上で難しいのは、検索キーワードの選択である。正しいキーワードを思いつけるかどうかで、得られる情報の質が大きく違ってくる。ある事象とそれにぴったりと合った言葉を連想できるかどうかが、個人の情報戦略における競争優位の源泉となりつつある。そのギャップを埋めることが、新聞の新しい役割となるのかもしれないなと、本書を読んで思った。

本書から「なるほど」と思った言葉を抽出し、そのひとつひとつでグーグル検索してみるといい。地方のソフトウェア会社が新入社員を東京に送って満員電車を体験させる「満員電車研修」の話など、グーグル検索で引っかかってこない「隠れた事例」だ。でもその研修を描写する中で使われる「痛勤」というキーワードは、新しそうに見えてもグーグル検索すれば10万件以上ヒットする既に定着した言葉である。検索結果の量に応じて、ある言葉が「新しいキーワード」なのか否か、ある情報が「隠れた情報」なのか否か、そんなことなどが瞬時に理解できるはずだ。

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