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The Archive

2003/03/13


昨日の続き。このBLOGのこれからの方向性について。

結論からいうと、このBLOGをまもなく終了し、新年度(4月上旬)からCNET Japan上で、原則毎日更新の新しい連載を始めることにした。新年度、新学期の四月に、気分も新たに何か新しいことを始めるのは楽しいことだ。

CNET Japan山岸編集長との議論の結果、連載タイトルは「梅田望夫・英語で読むITトレンド」と決めた。BLOGという名前は使わないことにした。「カジュアルに肩肘張らずに原則として毎日書く」というBLOGの良さは残しながらも、きちんと一般読者層を設定し、テーマも絞り込んだ連載とすべきだと考えたからである。

内容イメージとしては、このBLOGでここ1ヶ月くらいの間に定着しつつあるスタイルに近い。

たとえば、 3/9「インテルの新しい方向性」、 3/5「HPの成長構造を担うShane Robinson」、 3/4「ITバブル崩壊がシリコンバレーの各世代に及ぼす影響の違い」、 3/3「シリコンバレー対ハリウッド、訴訟にはこんなにカネがかかる」、 2/27「シリコンバレーVCの新しいゲームのルール」、 2/23「エンタープライズソフト市場の今後のConsolidation」、 2/19「William GurleyのSoftware in a boxを読む」、 2/16「ムーアの法則の支配から脱却すべきなのか」、 2/5「FCCチェアマンのTiVo礼賛」、 1/17「フィオリーナの挑戦」、 1/17「コンテンツは糞か: Creative Commonsをめぐって」、 1/8「天才ゴードン・ベルのMyLifeBitsプロジェクト」、 1/7「Cash is Kingとゾンビ企業」 みたいな内容をイメージしている。

それぞれのBLOGへのタイトルは、今、即興でつけたもの。しかしこの同じタイトルできちんとしたエッセイやコラムを日経ビジネスのような雑誌に書こうと思ったら、月に一本書くのも苦しい。そういう連載企画がもたらされたとしても、そんなたいへんな仕事は引き受けられないと、僕はきっと断っていたであろう。

あるテーマでエッセイやコラムを書くときは、そのテーマに関連した資料はすべて読み、その上で当該テーマに詳しい友人・知人と何度か議論して、誰も今までに書いていなかった視点をひねり出そうと四苦八苦する。だから毎月、三つか四つの書けそうなテーマを頭に描きながら、こんな作業を並行して続け、途中でテーマ自身を淘汰し、最後にテーマを一つに絞って、原稿を書き始める。そんな苦しい準備作業を伴うプロセスが不可避だった。それは、雑誌のエッセイやコラムにおける僕の想定ターゲット読者が経営者だったからだ。経営者に対してブリーフィングをする場合は、膨大な情報を咀嚼した上で、短い時間でそのエッセンスを、強いインパクトを伴って伝えられるかどうかがカギになる。そんなことを、文章を書く場合にもゴールとしていたから、どうも肩肘張ってしか文章が書けなくなっていたのだろう。

BLOG実験をやってみた個人的な最大の収穫は、そんな制約から自由になれたことだった。

これまで僕が対象としてきた人たちに比べて、CNET Japanの想定読者層は、ぐんと若い。

とすれば、すべての情報を咀嚼した上でエッセンスだけが提供されるブリーフィング・スタイルの文章がたまにアップされるよりも、考えるための素材(リードとなる英文の記事や論考)そのものと、それに伴う若干の解説や感想(ときには素材の紹介だけの場合もあるかもしれない)が、原則として毎日アップされるほうがいいのではないか。読むに値する記事や論考を選ぶ目だけは、十数年鍛え続けてきたから、それなりの自信がある。

そしてこういうスタイルなら、僕のほうも、毎日書ける。暇があるときならば、一日に四つでも五つでも書ける。それはこのBLOG実験を実際にやってみてわかったことの一つだ。

問題はそんな営みに価値が存在するかどうかであるが、CNET Japan山岸編集長(編集長といってもすごく若い、まだ20代半ばだ!!!)は、僕がこのスタイルで連載を始めることに、某かの可能性を感じてくれているようだ。ならばその感性に委ねて、新しいことを始めてみようという気になった。See how it goes! ということで。

2003/03/12


BLOGを毎日書くという実験をしばらく続けてきた結果報告をしよう。むろん一般的BLOG論ではなく、僕にとってBLOGというメディア(手法)は何なのか、という個人的総括である。

昨年10月23日にスタートして以来、書いた本数はだいたい200本くらいだろうか。テーマは思いつくまま、分量も思いつくまま、ただできるだけ欠かさずに毎日何かを書いてみる、という程度の制約しか自分に課さなかったので、内容は雑多なものとなった。

僕は「どこかの誰かによって簡単に代替可能なことや、やっても意味が生まれそうにないことは、できるだけしない」という基本方針で生きている。だから、自分が書いたBLOGをそんな観点からいつも批判的に眺めては、BLOGを書くことの意味を考えていた。結果として、「書かないテーマ」つまり「書いてもしようがない」「書くべきではない」テーマというのが自分でだんだんとわかってきた。

たとえば、

(1) 自分の生活の一部を綴る日記のようなことは、まぁ書いても仕方ないし、あまり意味がないと思った。いくつかトライアルに書いてはみたものの、継続的に書き続ける理由を見出すことができなかった。

(2) 「趣味は読書。」と言えるほど本はたくさん読んでいて、読後面白かった本の感想を書きたいという衝動には何度もかられたが、BLOG的反射神経で書く文章は、感想文程度のクオリティにしかならないこともよくわかった。書評を書くと決めるなら、それなりの準備をしたうえできちんと書くべきだろう。

(3) メジャーリーグやら将棋やら、自分の趣味の世界については、ここで書いても仕方がないということもよくわかった。読者層の大半が興味を持っていないテーマについて書くのはただの自己満足に過ぎない。どうしても書きたければ、「将棋タイトル戦の観戦記」や「ワールドシリーズ観戦記」が書けるくらいの心構えで準備して、正しい媒体で書くのを目指すのが本筋だろう。

(4) 日本語コンテンツの紹介・引用・参照については、日本でもBLOGが流行ってくるときっと多くの人がやることになるだろうから、あえて僕がやらなくてもいいだろう。

というようなこと。

個人の興味の広がりそのままに、テーマを選ばずに思いつくままに書けば、その個人が発散する臭気を避けることができない。よって、「その個人に対して強い興味を持つ読者(家族とか同僚とか知り合いとか)」以外にとっては、迷惑な夾雑物を含むコンテンツとなってしまいがちだ。

「別にそれで何が悪いんだ? BLOGとはそういうものだよ」という考え方はもちろんある。読み手にとって不要なところは、読み手の方で勝手にどんどんすっ飛ばして、たまに見つかる価値ある情報だけを選択的に読めばいい、と割り切る考え方は確かにある。その考え方の延長線上に、「膨大な数のBLOGGERによる書き込みの中から価値ある情報を抽出して読者に差し出すポータル機能」の提供という、読み手側に立ったビジネスの考えが出てくるのも自然だ。

ただ、だとすれば、BLOGは一つ一つの書き込み内容に分解され読み手によって荒々しく消費される「限りなく匿名に近い無数の書き込みの一つ」に位置づけられるか、「自己満足に堕しがちな、ものすごく小さなコミュニティの中で完結する営み」という域を脱することはできないだろう。

仮にBLOGを、書き手として「あるまとまりのあるリアルタイム・コンテンツ」として某か意味のある塊に仕上げてみよう、と試みるのであれば、こうした課題を意識的にどう解決するかが重要になる。

ではBLOGの良いところは何か。

(1) 玉石混淆にはなりやすいが、反射神経的にカジュアルにモノを書いて発信することができる。単独ではコラムやエッセイには仕立て上げられないような断片的なネタ(肩肘張っていると捨ててしまう情報)も、それなりに意味があれば紹介することができる。毎日書くと決めれば、しばらくすると、発信情報がたまって、かなりの分量になる。質より量、という考え方も、ときには大切だ。

(2) 紙メディアでは表現できない内容を表現できる場合がある。特にリンクを張りながら、そのリンクをたどった先と行ったり来たりしながら読むと、相乗効果的な意味を持つような文章は、BLOGにマッチしている。

(3) 行数の制約がないのは、紙メディアの制約と違う大きな利点である。行数を気にしないで文章を書くというのは、ずいぶんモノを書くハードルを下げてくれる。

(4) リアルタイム性の高いテーマや自分がずっと抱えているテーマについて、時系列で追いかけながら、過去に書いたものや誰か別の人が書いた内容にリンクを張ったりしながら、包括的に書き続けることができる。

(5) 自分が持つ「専門性の高い情報」、自分の専門に照らして「質が高いと判断できるコンテンツへのリンク」をリアルタイムで公開していくという習慣は、ネット全体での「知の創造」にプラスに作用するだろう。

とりあえずそんなところだろうか。

こうして四ヵ月半にわたるBLOG実験を総括してみると、おのずから、これから模索するべき方向性が垣間見えてくる。それについては次回に。

2003/03/11


斎藤美奈子の「趣味は読書。」は最高に面白い。ナンシー関亡き後、斎藤美奈子を読むのが待ち遠しくなっている。

斎藤美奈子はこんな顔の書評家・批評家(小林秀雄賞を昨年受賞)で、「超一流主義」のミス・ミナコ・サイトウとはまったくの別人である。

斎藤美奈子の「妊娠小説」「文壇アイドル論」「文章読本さん江」は、彼女の本格批評で、それはそれは深く面白いものであるが、この「趣味は読書。」は肩の力を抜いて投げた球がびゅんと伸びてきたという感じの本である。

この本はベストセラーを解剖するというのがテーマで、まずは、本との関わり合い方という観点から、読者を「偏食型」「読書原理主義者」「過食型の読書依存症」「善良な読者」に分類する。

「この一族は年中本に関するゴタクばっかりこねている。書評や書籍広告にもよく目を通し、読んだ本についてあれやこれやと論評し、頼まれもしないのに、ネットで読書日記を公開したりする」
というのが「過食型の読書依存症」の描写。

そう言われると、こういう文章を書くのも気が引けるのだが、まぁ続けることにしよう。

最初の三つの「偏食型」「読書原理主義者」「過食型の読書依存症」が「くだらない本ばっかり売れて」と嘆息する「鼻持ちならない連中」なのに比べて、「善良な読者」は、健全で平和主義者。この「善良な読者」を魅了するのがベストセラーを出すカギだと彼女は主張する。「善良な読者」の特徴は「趣味は読書」と自他ともに認めていること、という言葉から始まり、「善良な読者」の描写を続け、最後に、「善良な読者」の唯一の欠点は、本の質や内容までは問わない点だ、「感動しろ」といわれれば感動し、「泣け」といわれれば泣き、「笑え」といわれれば笑う、と落っことす。

まぁ簡単にいえば、ベストセラー本をこきおろしつつ、現代日本を語っている本なのである。

それが実に面白い。

「読書の王道は現代の古老が語るありがたい人生訓である」
という第一章では、五木寛之「大河の一滴」、石原慎太郎「老いてこそ人生」などを取り上げる。

「大河の一滴」は「ありがたい辻説法のお手本」、「老いてこそ人生」はタイトルこそ単行本化時につけられたものだが本質は「肉体派の自慢話の集積」で「オレたちの世代、オレたちの時代についてとうとうと語った本」で、買っているのは常に同世代の読者だと分析する。

「究極の癒し本は寂しいお父さんに効く物語だった」という第二章では、浅田次郎「鉄道員」やシュリンク「朗読者」などを取り上げる。浅田次郎の芸は、怪談話に「日本経済を支えてきたサラリーマンのお父さん」の層を「あたたかく肯定する」要素を思い切りぶちこみ「泣きのつぼ」を押さえた芸だという。シュリンク「朗読者」は、「インテリの男性が好むインテリ男に都合のいい小説」だとばっさりと斬る。

突き詰めて言うと、彼女の真骨頂は、女性の視点にある。何のかんの言っても日本は男性社会。無意識下に出る男性ゆえのおごりや、男性が当たり前に感じている社会のあり方に対して、鋭い切れ味で迫るところが持ち味である。

彼女のデビュー作「妊娠小説」は、純文学の多くが、男が女を勝手に妊娠させておいて勝手に悩む身勝手な小説ばかりだ、という問題提起であったし、「文章読本さん江」は、作家や文章家(ほとんど男)が「文章はこう書け」と下々に対して語った本のいかがわしさを暴き出す、という面白さを持っていた。

そして、この「趣味は読書。」の中では、江藤淳の遺作「妻と私」を厳しく批評するくだりが素晴らしい。この本については書き出すときりがないが、このへんでやめよう。ぜひご一読を。

2003/03/10


Intel Developer Forum(IDF)については、小池良次さんの報告や、ZDNet Japanの特集記事をはじめ、かなりの分量の日本語情報がネット上にある。小池さんも

「年2回開催されるIDFは、コンピューター技術の方向に大きな影響を与えるばかりでなく、世界のIT機器に関する製造計画も左右する。」
と書かれているが、世界のリーダーの常ではあるが、Intelは需要創造の最先端を走り続けなければならない宿命を背負ってきた。

「Forget a Moore’s Law」に関わる本欄のBLOGとも関係するが、そのIntelにおける本質的変化を分析しているコラムを二つご紹介しよう。

まずはDavid Courseyの「Does Intel still matter? Yes, but...」である。

「I'm still waiting for someone to tell me why I need a 3GHz processor--or, for that matter, a 2GHz CPU. Sure, Windows XP likes raw horsepower. But my impression is that the OS, if forced to choose, would rather have more memory. And what slows down Microsoft Office, at least for me, isn't the processor--it's the time required for me to think of what I want to do.」
「これ以上のスピードのプロセッサがどうして必要なのだ」という視点からこの記事は始まっている。
「DURING THE LAST HALF of the 1990s, Intel tried to create new uses for its processors, pushing technologies and products that would eat as many processor cycles as possible.」
「So Intel seems to have given up--at least temporarily--on the search for some fundamental technology that will really change things. Instead, it seems intent on plundering other companies' revenue streams by making its chips do more of the work.」
90年代後半のインテルは高速プロセッサの需要創造に自信を持って邁進していたが、今はそれを諦め、これまでは他社が提供してした機能をインテルの石にワンチップ化することの優先順位を上げていると指摘する。

この議論は小池さんの

「これは、これまでサブ・システムとして他社が提供してきた機能をどんどん自社チップに統合して行くインテル戦略でもある。統合により、全体のコストが落ちるばかりでなく、設計の単純化もはかれる。」
という報告と呼応するところである。

「THE POINT IS that Intel calls its current state of affairs "being in the solutions business," or packaging things together that used to be purchased separately. This is the story of PC hardware, where almost everything you used to purchase separately--things like modems, network adapters, and video cards--are now included with the PC itself.」
インテルはこの方向をSolution Businessだと呼んでいるが、
「Rather than forcing progress, Centrino has the effect of homogenizing hardware, and removing wireless performance and, perhaps, battery life as areas for competitive innovation. And while this may be inevitable, it leaves fewer and fewer areas where hardware manufacturers can actually compete. And it positions Intel not as an innovator, but as a follower.」
これは発展ではなく停滞を引き起こすのではないかと指摘する。

この問題意識は、ZDNet Japan・本田氏の解説「Centrino普及で踏み出したIntelの危険な“一歩”」とも合致する。

もう一つの重要なコラムは、Patrick Houstonの「Intel's big shift: We need more than speed」である。こちらには詳しい解説は加えないが、非常によくまとまっている論考である。

ここでご紹介した二つのコラムは、翻訳された日本語でも読むことができる。

“夢をあきらめたIntel”が気になる理由
Intelの新宣言「スピードだけじゃない」

翻訳をまず先にざっと読んで、何が書かれているのかを理解したうえで、肝心なところの文章だけは原文にあたっておく、というような読み方をしてもいいと思う。

2003/03/09


ハイテク産業職種別米国サラリー事情の詳細調査がBusiness 2.0誌に発表された

「Judging from the press, today's salary and employment outlook stands somewhere between dismal and disastrous. But Business 2.0's first annual employment survey tells a different story. We examined wages and job security in almost 100 professions, with particular emphasis on five industries that played central roles in the 1990s boom: software, hardware, media, telecom, and health care. Except in the most stricken fields, like telecom, salaries have held up surprisingly well.」
ポイントは、バブル崩壊といってもサラリーはそう下がっていないよ、という話。

この記事は解説をだらだらと読むよりも、いきなり数字を見て、日本と比べたりしながら考えるほうが面白い。 ソフトウェアハードウェアメディアテレコムヘルスケアと、それぞれ産業別に見ていくと、それぞれのどんな職種の希少性が高く、ゆえにサラリーが高いのかがよくわかる。

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